姉の言い分

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以下は、R.6.4.21 18:27:52に配信された姉からのメールである。

母逝去のこれまでに、会う事はせずよも、メールで事が足りているとの認識だそうですが、こちらが、貴方が斎場では偲ぶ会を開催しようと考えていると言われたので、その日程を決める事やら、その相談で当然お会いする必要があるだろうと提案をしたのに、その日程をドタキャンされ、それっきり、相続税の納税相談もないまますぎました。

ゆうちょの保険金受理の通知がきたが、それには死亡診断書の添付が必要なので病院から受け取っているものを渡して欲しいとお願いしたのに、貴方は自分でなんとかせよとナシの礫で応じてくれなかった、そこで額面2百万程度の保険金なのでそのままにして、面倒になる事を避けるほうがましだと気持ちを切り替えました。他にも、紀子へとお母さんが保険を作っていたと説明をしてくれたのもあったが、そんなことで貴方とやりあってもつまらないだけだと思いました。

また、当然に、相続税の納付をしなくてはいけないのに、その件についても、すべての証書を手にしていた貴方は、見せる事も拒み、メールでお尋ねしても無視され続けてきました。

今回、そちらのご都合で、車の件で分割協議の必要性が出来て、メールなどを送ってきましたが私が尋ねて数千万にはなる遺産の分割協議には応じていただけず、しかも、このたび贈与税を支払ったのだと初めて明かされ、その際には、合わせて相続税も払ったと、5年も経ってようやく明かされたものの、いくら納めたのか金額をお尋ねしたことにも、相変わらずにこれまで同様に明瞭にしませんでした。

会って話すような関係性が失せてしまったということを貴方が伝えてきたのだと分かりましので、であれば、あと5年でもかけて対応していくことになるのかなと、思います。

自筆遺言を制作した意図は、分割協議が速やかに整わない場合、母親の口座が凍結されて光熱費、税金、食費に関する支出を母親に頼っていた貴方が、生活費に困って家も協議が整うまで差し押さえなどになったら、姉がその面倒をみるなどとの厄介を背負わされるのではと、懸念もありました。少しでも凍結解除を早める策として、お母さんが認知症にでもなってしまたりしない前に遺言書を自筆で書いてもらいました。公証役場に行くには足腰、心臓が弱っており、とても負担だろうと思ったのですが、貴方は母親の老骨に鞭うたせて、4,5件の銀行を廻って、手にしたというので切羽詰まってしまうとは恐ろしいと思いました。

貴方に連れられて銀行に行ったとの話は、自筆遺言を書いて一か月もしないうちになされたようなのを、後日、聞かされましたが、何か姉の動きを不安視して銀行に行ったのかとは推測しましたが、貴方はしっかり、贈与との手続きをするために行動していたのだと、今ごろ、知りました。

お母さんが亡くなる前に、貴方にも遺言書の内容を見せましたよね、ですから、亡くなってから、貴方が遺言書を見せてくれと言ってきたのでコピーを持参しましたが、貴方はそれの検認についても触れたので、よくそんな事まで思いつくなと感心しましたが、今になって考えると「もう、そんな紙は無効だよ、贈与は執行されているのだ」笑って見ていたのでしょう、ネットにアップしたのは、更なる遺言がされて(結局は当方のPCで確認できませんでした)いたものなのかと思います。しかし、いつからネットにアップしていたのかは存じませんが、その後に書き直された遺言書があって、それをアップしてあるのかもしれませんが、貴方がいうように一成に金融資産の贈与を実行していたのだと貴方だけが認識してはいても、他方の相続者はそれを知らされておらず、つまり、貴方においては、無効になった遺言書だとよくよくご存知で、姉に遺言書を持ってこいと言って内容を確認してニヤニヤしていたということなのでしょうね。

貴方の生活費を唯一の親族として姉が工面してあげなくてはならない状態だけは避けようと自筆遺言を作成したのであって、金融資産について贈与を受けておられたのなら、まったく姉が気を揉むことはなかったのです。自筆遺言書の目的は、弟への資産贈与の実行で無効になったということでしょう。しかし、遺留分請求という手段もあり、5年も経ってしまっては裁判の申請もできないとかいう規則でもあって、貴方は黙秘していたのでしょう。

よくも、検認などと分かったような事をいいながら、ほくそ笑んでいたのかと思うと心無い人だなあと、改めて悲しく思うだけです。因みに、生前贈与には海外留学費用を出してもらっていた金額も含まれるとは、認識しておられますか?お母さんによれば当時の為替レートは360円位なので、2千万位だしてやって、一成は後日返すと言っていたのにそれも返済せず、その他に2回ほど200万ほど貸して欲しいと言われた、女性問題でややっこしい事になったのか詳細は聴かなかったが、金銭借用書も書かせて、何度か返済を求めたのに遂に返さなかった「一成の子育てには失敗した。孫はちゃんと結婚して、男の子を生んで、悠はたいしたものだ」とぽつり言いました。

もちろん、相続税のこともあるので、母の死後に竜ケ崎には用紙をいただくなどに行きはしました。そして、相談に出てこない親族との話し合いが整わない場合にどうすればいいかと、電話相談もしました。今になって、貴方は、自筆遺言の内容が変更されていたのだと知っており、それなのに検認するおかしさを鼻で笑っていた、腹もたち、人の悪さに呆れます。金融資産の資産額はほぼ合っていたでしょうが、すでにそこから長男口座への贈与がされて、残りの不動産も貴方へのなっていたのですから、当然、一成によって相続税の納税も済ませていた、そういうことだった、それを5年も伝えないでいた、これって争族になる種を播いていた弟に、まったくそれと知らない姉が、賢明に弟の生活の立つ瀬を腐心して、バカを見ていたということでしょう。古谷家の相続財産に蚊帳の外の姉であって、今度は自分の都合で郵送で書類を送れなんて、車一台で今さら急がされてって、何なのという感じです。

それと、入院の際の保証人をどうされたのか、それも返答がありませんので、私の勘が当たっていたのでしょう、今後はネットでそうした委託業者も簡単に見つかので手続きして、公文書違反のような事はなさらないで済むよう手筈してください、そういう事業者は犬猫の世話も相談に乗ってくれる条件の所を探しましょう。
   
無視された姉として、メールも不要でお願いします
お粗末さま

以下は、R.6.4.20 12:43:32に配信された姉からのメールである。

下記の内容のメールは読み飛ばしていまして、今、見ましたので、これまでのことでを書いて、守谷の移転先の家で起きたことについて正しておきたいと思います。

子の10日ほど、次女の帰省に合わせて、家族4人で先々のことを話し合う機会にしたいと考えており、そんな時に貴方のメールが来ましたのも何かの暗示か、家族を見直す時と思います。

お父さんの田舎は、不幸が続いた家でもあり、それは戦争という時代の中での農村の家族に起きた出来事の一端だったのかなと捉えて、残念なことが多々起こりえた集落だったと感じます。しかし、祖先を大事にする風習はお盆の行事に表れて、それを疎かにはできない地域の人々の思いがあります。お祖母ちゃんもそれは大事にして、相続に関してはずっと、長男がと考えていて何度も結婚相手を探して、私にも相談をして、経過を伝え聞いていました。50になるまでは、一成にと考えていたとは思いますが、その先は親戚の誰かを養子にして継いでもらいたいなどとも言い出して、相続に関しての嫁としての責任を強くもっていたと感じてはいました。

しかし、長女とは言え、あの家の不動産を狙うなどの発想をするのは、一成君の思考回路でしかあり得ません。断言しますが、私は親のお金と財産をあてにせずに暮らすだけのお金と不動産名義も持っているので、そんな敷居を跨いで入りこみたいとの邪推はされたくありません。

お母さんが、紀子にもカギを持っていて欲しいと、勝手口のカギまで念入りに渡されて貴方がいないときに困っても紀子が開けて入れるようにとのお母さんのお願いでカギを渡されお母さんが相続の相談をしたいからと何度もいううちに、金庫の中身を見せられて記録をしました。

しかし、早帰りした貴方には敷居を跨いでいつでも財産を持ち逃げされるかもしれないとの邪推が始まったのでしょう。カギを返却しろとの脅迫じみた物言いに、これではしょうがないと返しましたが、どうして、姉が母を心配して訪ねていくことを警戒したのでしょうか、貴方にとっては長女紀子は財産を脅かすライバルとの認識に変わっていったのではないかと心理を推察しますが、違いますか?

今は生前贈与も受けて、一人で先々心配ない状況になって、躯となった際にどうしようかなどと考えはするものの、当座は犬の世話を心配するだけとなり、5年間も裁判も財産分与すら請求してこない姉への警戒を解いたというところでしょうか? あなたは気が小さい男だったとわかってきました、身から出たさびというか、自分で貯蓄をすることなく、結果は母親の羽の下で暖かく暮らせて、安心だった。一回でも母への謝金を返したとか、家賃を払ったとかなら常識人ですが、お母さんによれが、そんなことができずでも平気でいられた。というのが一成君でした。

悠も恵も、自身が働くようになったら自分の住むところ生活費を実家に見てもらうということはないです。

自発的にその辺は、わきまえて、そこがやはり社会人としての常識の第一歩かと思い、母と息子については反面教師となりました。

そこで、お尋ねしたいことも含めて、守谷にまつわることをはっきりしておきたいと書きましたので、

真実をお答えください。

◇申の置物で絶縁を画策したのは、なぜか?

あなたは、あなたが守谷に新しい家を建てる前から、私達が日枝神社に元旦のお参りしたさいにその年の干支の土鈴を買って縁起物として渡しているのだと知らなかったと思いますがはっきりさせておきますが、買ってお土産に差し上げたのが私たちです、それお知らないのは、貴方だけです。

そのころ、貴方はお父さんお出入り禁止になったか、父親ときまりのわるいことになってしまい足が遠のいていた。お父さんは小さな孫の遊ぶ姿、成長の様子を喜んで、二人に自転車を買ってくれて庭で乗り回すのを見て喜んでいました。私も孫がそのころの年齢になって、ぐんぐんと大きくなる成長ぶりをやはり子供がいてこそと、気持ちがわかるようになりました。孫と遊ぶなどの実践はお祖母ちゃんの独壇場でしたが、得意の編み物で毎冬セーターを編んだり、編みなおしたりしてプレゼントしてくれたりもありましたし、常総プールで一緒に泳いだり、一緒に遊んだ思い出がお祖母ちゃんへの愛情につながっていきました。

その関係を「敷居を跨がないよう」にと姑息にも画策する材料に申を選んだのは、一成君しかありえません。

ネスミはお祖母ちゃんの干支=恵と同じなので、申を隠したのでしょう。

貴方の母親を独占試合深層心理がジェラシーの根源で、孫とお祖母ちゃんの関係を断とうとしたのでしょう。

両国高校に入るくらいの頭の悪くないはずの一成君でしたが、子育て経験が皆無なため、前後を見誤っていました。

いい大人が申の置物など持ち帰るほど欲しいなんて思わないのに、20代の娘たちを子供じみたことをまだしているよう思い込んでいたのは、子供の成長においつかない一成君だからだとピンときました。

それに後付けで気づいて、お母さんは事の次第をわかって「一成の子育てには失敗しました」とポツリと言わしめたのはゆめみの での事だったと思いますが、それが真実だと思いました。

ダビンチ、サンタ、ゆめみの と転々としても、自慢の自宅に戻れなかったのは 一成君がいたからでお母さんは戻ると何が起きるかわからないからと、躯になっても二度と戻ることはないまま、直送されお骨になりました。

恵は、その後、何度かお祖母ちゃんの夢をみたと私に報告してきました。そんなことがあるのだろうかと思いますが、そうやってお祖母ちゃんは孫に思いを伝えようとしているのかと、改めて思いました。

悠は公正で寛大な私が感心するほど人がいいところがあります。この頃は、人並みにともかく子供のことを中心に考える母親になりましたが、それを見て「子育てには失敗していない」と私はうれしく思います。

子育ては人を成長させるプロセスです。それは、夫婦間の気持ちが安定しているからで、お母さんも大正生まれで、外地帰りの敗残兵と呼ばれた世代の男のうっ積など抱えた夫との暮らしなので、お母さんたち大正生まれの女性は大変な思いをして、それこそ敗戦の国土で生き抜いてきたのでしょう。

だからお母さんへの批判はできません、その時代の哀しさ、悔しさはどこかで誰かが受け止めてあげていたいと思っています。守谷のお墓の前で手を併せて、悠も恵も祖父母への懐かしいお盆の夏の夜を心に刻んで来ました。

青い屋根の家があった屋敷から、毎夏、提灯に灯をともして迎え火、送り火をしていました。

すると、胃の前の道に次々に提灯の明かりが続いて、のどかな風物を小さな手を引いて歩き、年を重ねました。七五三の着物を作ってくれたり、お互いに麗しい時期を続けて行きました。

ですから、一成君によって濡れ衣を着せられたにもかかわらず、お祖母ちゃんがオジサンに意地悪をされていないよう、時々、様子を見に行ってあげたほうがいいと、娘二人に説得されて守谷に再びいくようになったのは、お祖母ちゃんのことを心配する孫の気持ちを受けてのことでした。

一成がイライラするから、そろそろ帰りなさいというのもお祖母ちゃんのほうで、自分の家であって息子の様子を気にしているのがわかり、そのうちに暴力を振るわれていないか、時折ようすを見にいったほうがいいとまで、二人の一致した意見でした。それを財産狙いと勘繰る貴方の神経がわかりませんが無料ので飲食できるネグラを得て、まるで息子が母親のために家を建てたように思われて、鼻高々だったでしょうが、現実を知る私たちは激高しやすい一成君の本質も気づいて、お祖母ちゃんに何事かおきないように用心していました。

悠は心が広いのは貴方との違いです。守谷の家屋敷、動産に固執しているのは、唯一、貴方だけなのを一成君自身 悲しいかな気づいていないのです。

今の時代、少子高齢化、ジジババ余りで、孫ができない家は多い、勢い家屋敷、お墓も継承する子孫g

ないということが多数起きているのです。悠の夫の実家のその両親もそれぞれ、受け継ぐべき孫がいる子孫がなく、田んぼや空き家の受け取り手がないので、彼も墓守りをしなくてはならない場合に、福岡転勤で長い未婚の妹とは相談のしようもなく、我が家だけが男児3人ですが、どのお墓をどうして上げたらいいのか、先のことなど孫に相談することもできず、彼らとて海外で暮らすようになるかもしれず、田んぼや畑は農家の経験がないとどうしようもないものです。

貴方は、自分で好き勝手にやって作った借金までお母さんに返してもらっていて、その返済をするように覚書も書かせたが、結局、最後の最期まで返済してはくれなかったとお母さんが嘆いていました。

一成は約束した返済をしてくれなかった、だから守谷の母が建てた家にいる以上は、ゆめみのには通ってきてもらう、それがせめてもの償いになるというような事を言って、貴方が留学費用を働いて返済する、何で作ったかわからないが、女の人にでも騙されたのか作ったのか200万だかも一回ではなく返済に用立て、借用書まで書かせたが、返済請求をしてもそのままで、大島の家の家賃もおろか、守谷に来てもお金をもらったことはない、とその貸し借りの金銭感覚へのいい加減さを苦々しく吐露した。

お金を貸したのに息子は反故にしたまま返さなかったという、金銭感覚のできてない育てかたにがっかりしていたのでしょう。そして、「子育てに失敗しました」と言わしめたのだと思います。

そのため、悠が二人目のひ孫の話には、「でかした!」と二重丸をくれて、最期の最後に言ってくれました。

そういう、祖母と孫娘の関係を一成薫は、姑息な方法で絶とうとした。私もがっかりです。

貴方が、申を選んで仏壇のどこ隠しておいたのは戦略誤りでした。お母さんの為に孫たちと買って毎年とどけていた十二支だと知らなかったのは貴方だけです。

私が再び、お母さんの家にいくことを躊躇したのに、「お祖母ちゃんと仲直りしないと後で残念なことにならないとも限らない、オジサンがお祖母ちゃんに何をするかもわからないから、時々行ってあげたほうがいいのじゃない」と私をなだめすかしてくれたのは悠と恵でした。それで、訪ねていくようにしましたが、だんだんにお母さんの体も弱り、食事つくりも大変なのだとこぼすようになっていたころは、息子に気兼ねしている風なのがわかりました。

姑息なことをする弟は、「血がつながってない」というような話を選挙事務所の男性にもして、ほかの女性には不謹慎なメールをして、オカシイと言われるようになって、事務所に来てもらわないほうがいいと言われたので、お母さんには「私と弟は姉弟じゃない、血がつながってないのだと一成が言ってるのは、どうしてか」と問い正すとさすがのお母さん「じゃあ、お父さんが違うということなの?」と返すので、呆れてしまい、話はそれで終わりました。一成君は頭はいいが、自分への対応が面白くないとその仕返しのやりかたが精神年齢でみて、子供ぽかったりヘンだったりして、疑問符なので、どうしたわけかと考えたりしました。

多分、セイコー電子でリストラ対象になった時の事情が、貴方に何か陰を落としたのだろうかと思いあたりしましたが、海外留学までしてプライドが高いので、そんな恨みを誰かにぶつけようとするのかもしれにと考えたり、リストラが激しかった時代、呼び出されては同僚が辞めていき、最後は自分だとなる職場にいれば鬱を患うのもあったかもしれないとは想像しましたが、断片しか暮らし向きもしらず、大島団地での一人暮らしについては、わかりません。

しかし、悠にそのつけを向けたのは、お門違いでした。そんなあなたの行状を恨んだりせずに、私を諭してお祖母ちゃんを案じていました。人の幸不幸は、時代に翻弄されることもありますが、人として考えて行動するできうれば世に何かしらでも貢献になるように生きたいと願いながら暮らしてます。

最後の事情説明の機会ですが、申の置物を画策したのは 一成君、貴方ですね?

相続税を国に治めて、国民としての義務は果たせていたので安心しました。今まで何度かお尋ねしても、答えてくれなかったので非常に案じていました。

さて、それと同じに大事なことです

申の置物の件、今回、返事がなかった場合、貴方の出来心での悪戯から始まったのを自身は認めたくはなかったが、事実はそうだと認めたと考えます。お答えください。 

*下記メールで黄色マーカーは意味不明な部分